舞台『るつぼ The Crucible』
真と嘘のるつぼが成した「私たちの居場所」
セイラムの魔女裁判の嚆矢、
少女・アビゲイルを演じて⸺
一つの〈悪〉が佇むところには、いくつの悪意が根を張っているのだろう。表層の悲劇に目を奪われてしまえば、その深淵で息を潜める根源を見つけることは難しい。約330年前、アメリカ・マサチューセッツ州セイラム。かの地を飲み込んだ「魔女裁判」の狂気もまた、その静かな根の上で繰り広げられていたとしたら⸺? 凄絶な告発の先頭に立った一人の少女。真実を忌み、嘘を信じて告発し続けた彼女の心には、自らの衝動と、周囲から注ぎ込まれた悪意が〝るつぼ〟のごとく溶け合っていたのではないのだろうか。約一ヶ月にわたり、彼女こと「アビゲイル・ウィリアムズ」と向き合った瀧さん。芝居を通じ見つけた、少女・アビゲイルの素顔について、舞台『るつぼ The Crucible』を振り返り、たっぷりと語っていただきました。

-イントロダクション-
男と女、政治と利権、真実と嘘⸺
相反する思惑が“るつぼ”のように溶け合い、
誰も予想できない結末へと導く。
1692年、マサチューセッツ州セイラムで実際に起きた魔女裁判を題材に、集団心理の恐ろしさ、人間の尊厳、そして抗い続ける意志を鋭く描き出した本作。真実と嘘が“るつぼ”のように絡み合い渦を巻くその熱は、観客を劇中の逃れようのない運命へと引き込み、深い衝撃を与えた。最後まで展開の読めないこの物語は、閉幕した今もなお、現代を生きる私たちへの鋭い問いとして心に突き刺さっている。本作は、『セールスマンの死』『橋からの眺め』など、今なお世界中で愛される劇作家アーサー・ミラーの代表作。1953年のトニー賞演劇作品賞受賞以来、時代を超えて上演され続けている名作に、盤石の布陣が挑んだ。演出を手掛けたのは、第56回紀伊國屋演劇賞、第29回読売演劇大賞最優秀演出家賞を受賞し、近年も『みんな鳥になって』や『グッバイ、レーニン!』などの話題作を世に送り出している上村聡史。戯曲の持つ多層的な面白さを最大限に引き出し、美しくも力強い、圧倒的な劇空間を作り上げた。主人公ジョン・プロクター役を務めたのは、第48回菊田一夫演劇賞を受賞し、近年もミュージカル『ブラック・ジャック』や『ホリデイ・イン』での好演が記憶に新しい坂本昌行。『Oslo(オスロ)』以来2度目となる上村とのタッグで、葛藤する男の魂を見事に体現した。さらに前田亜季、松崎祐介、瀧七海といった実力派キャストが集結。17世紀アメリカの過酷な歴史の闇を、確かな演技力で現代に蘇らせた。
-あらすじ-
17世紀、マサチューセッツ州セイラム。
夜の森で裸で踊る少女たちが目撃され、
そのうちの一人が原因不明の昏睡状態に陥る。
これは魔女の呪いなのか⸺。
街に不穏な噂が駆け巡るなか、少女アビゲイル(瀧 七海)は「ただ踊っていただけ」と主張する。彼女はかつて雇い主だった農夫ジョン・プロクター(坂本昌行)と関係を持ち、彼への思いを募らせるが、罪の意識に苛まれたジョンは彼女を拒絶する。アビゲイルの目的は、プロクターの妻エリザベス(前田亜季)からその座を奪うこと。やがて彼女は無実の村人を次々と“魔女”として告発し、恐怖と疑念は村全体へと広がっていく。
-アビゲイル・ウィリアムズ役/瀧 七海-

パリス牧師の姪であり、かつてはジョン・プロクターの家で奉公人を務めていた少女。真夜中の森で密かに行っていた儀式を牧師に目撃されたことを機に、彼女は「悪魔」の存在を叫び、聖なる村セイラムを未曾有の狂乱へと陥れていく。その真の目的は、プロクターの妻エリザベスを排除し、その座を奪うこと。抑圧された環境下で「神の代弁者」という絶対的な権力を手にしたアビゲイルを中心とする少女たちは、集団心理に突き動かされるまま、無実の村人を次々と“魔女”として告発してゆく。
舞台『るつぼ The Crucible』を終えて
まずは無事に公演を終えることができた安心感と、緊張感から「解放された!」という清々しい気持ちでいっぱいです。今回私が演じたアビゲイル・ウィリアムズ(以下、アビゲイル)は、実在したセイラムの魔女裁判において、村人たちを次々と「魔女」だと告発していった少女。作品に向き合っている期間は、私生活のなかでも「彼女ならどんな判断をするだろう」「彼女だったらどう受け取るだろう」と、常にアビゲイルの存在を意識する日々でした。いまこのタイミングで、本作を通じて彼女という役に出会えたこと、そしてアビゲイルとして生きた時間に心から感謝しています。
現代は、SNSで情報やウワサが拡散されますが、
本作では「人と人のあいだ」で言葉が伝播し、
物語が広がっていきます。
匿名性がないゆえの〈怖さ〉が
存分に描かれていると思いました。
そうですね。物語の舞台のような閉塞的なコミュニティのなかでは、連鎖の根源となる発言者がはっきりと目に見えてしまうんですよね。SNSとは違い、言葉を発している本人の顔が見えるからこそ、誰を信じていいのか分からない⸺。あの時代を生きていた人たちは、現代とは異なる意味で本当に大変だったろうと思います。

数か月間、本作の世界に浸り続けてこられましたが、
初日と千秋楽で
アビゲイルという役の見え方に変化はありましたか?
ありました。作品と向き合う時間を通して、アビゲイルの実直さや仲間想いな一面、そして告発の引き金となってしまった「使用人」としての生い立ちなどが、より鮮明に見えてきました。魔女裁判の悲劇は、アビゲイルの言動がそばにいた少女たちの連帯感を深め、一つの共通認識として強く結びついてしまった果ての結果。けれど、演出の上村聡史さんは、アビゲイルのことを「魔女のような存在にはしたくない」とおっしゃっていたんです。その言葉を起点に役を掘り下げていくと、周囲の大人たちの関係性や、時代特有の少女たちへの抑圧など、アビゲイルたちを取り巻く哀しい背景が浮かび上がってきて。さまざまな要素が重なり、偶発的に連鎖して起こってしまった悲劇。演じているうちに、物語全体がそんなふうに見えるようになっていきました。
一観客としても、物語が進むにつれて
「この悲劇の〈悪〉は、
本当にアビゲイル一人なのだろうか?」
と、考えさせられました。
私自身、最初に脚本を読んだときは「アビゲイルが一番の悪人だ」と思っていたのですが、当時、少女たちが置かれていた日常を想像すればするほど、「彼女だけが悪いわけではないのではないか?」と思うようになっていきました。もちろん、告発の先頭に立っていたのはアビゲイルですし、彼女の行動が引き金になったという事実は変わらない。けれど、その背景には大人たちの歪んだ人間関係や、彼女が生きてきた過酷な環境が影響していたと思うんです。そう考えると、やっぱり彼女一人にすべての罪を背負わせることはできないんじゃないかな、と。

その思いを抱えながらアビゲイルと向き合うなかで、
彼女なりの〈正義〉や〈恐怖〉を
どのように捉えて演じられていましたか?
〈正義〉という言葉で一番に出てくるのは、アビゲイルたちが「魔女だ」と村人を告発する法廷の場面です。絶対的な権威である法廷で、自分たちの意見が尊重してもらえる。それはきっとアビーたちにとって、これまでにない解放感を得た瞬間だったのではないかと思います。大人たちが求めている意図を汲み取り、善悪を計りながら告発を繰り返していく。そこには「求められたものに応える」という、少女たちなりの〈正義〉があったんじゃないかな、と。告発される側からすれば、嘘が真実として飲み込まれていく“たまらない〈恐怖〉”があったはずですが、アビゲイルたちの側には「やっと自分たちの声を聞いてくれる居場所を見つけた」という、ある種の安心感が生まれていたような気がするんです。ずっと自分たちを縛りつけていた抑圧から解放されて、告発することで称えられて。そうした経験を重ねながら、周囲の信頼を勝ち取り、自分たちの居場所を確立させてゆく。彼女たちにとって “告発”とは、そのための切実な手段だったのかもしれないと、私は解釈しています。


告発の場である法廷を
「自分たちの居場所」と捉えながら演じているとき、
瀧さんご自身の心にも、
少女たちのような〈解放感〉は芽生えていましたか?
段階的に「ここ(法廷)で告発を続けていけば、自分たちを守る壁がどんどん高くなっていき、いずれ居場所が確立されていく」という少女たちの思惑は感じていたものの、法廷のシーン単体で、「解放された!」という高揚感をもつことはありませんでした。劇中には描かれていなかったのですが、実は彼女たちの告発の裏には「あの土地を手に入れたいから、あの人を告発してくれ」といった“大人の画策”が隠されていたんです。実際は、誰かの頼みに応えようとする少女たちの純粋な気持ちを、都合よく利用しようとした大人が何人もいたんですよね。そんな土地をめぐる欲望を背負わされながら、矢面で告発をし続けた少女たち。当然「大人たちだって悪いことをしているのに、どうして私たちだけが責められるの?」という思いが芽生えてくるわけで。告発を続ければ聖女のように扱われるけれど、嘘だとバレてしまったらまた使用人の生活に戻されてしまう。だったら「大人も同罪なのだから、私たちの告発も悪くないはずだ」という強い反抗心を糧に、彼女たちは告発を続ける道を選ぶ。そうした歪な連鎖が、歴史に刻まれるほどの悲劇を積み上げていったのだと思います。法廷のシーンで私がアビゲイルを演じながら感じていたのは、〈解放感〉よりも、大人たちへの〈制裁心〉に近いものでした。そんななかで唯一、本心で言葉を放てたのが、アビゲイルが帽子を取って「私たちは少女として留まっていない」と告げる場面。それまで抑圧され続けてきた彼女の思いを、爆発することができたシーンでした。

アビゲイルは「悪魔の声を聞く・姿を見る」という
虚構を介して、
魔女をあぶり出し告発を重ねていきます。
実際、彼女には何が聞こえ、
何が見えていたと思われますか?
私のなかでは、彼女は意図的に「錯乱しよう」と企んでいたわけではなく、周囲から「何か見えるのか?」と聞かれて、咄嗟に「あ、見える」と自認した結果、それが幻なのか現実なのか、自分でも境界線が分からなくなっていったんじゃないかと思っています。法廷で、アビゲイルを筆頭に少女たちが錯乱状態に陥る場面があったのですが、演出の上村さんからは「少女全員が、幻を本物だと思い込むように」などといった統一的な指示はなかったんです。私の場合は、実際に「いま、何かが見えている」と信じ、かつての友人であったメアリーの姿さえ悪魔に映っている、という感覚で演じていました。他の少女役の皆さんも、それぞれが独自の解釈をもって演じられていたと思います。ただ、一人ひとりのアプローチは違えど、その解釈が「告発」という形で表面だって一致してしまったがゆえに、あの異様な連帯感が生まれたのは間違いなくて。演じていた身としては、客席からあの光景がどう映っていたのかも気になるところ。観てくださった方それぞれの人生が、きっといろいろな解釈を生んでいたことと思います。いつか皆さんの声もお聞きしてみたいです。
本作には、
「同じものを信じ、同じ方向へ暴走していく
“集団心理”の恐ろしさ」が描かれていますが、
瀧さんご自身は、
この作品を通じて“集団心理”について
どのようなことを考えられましたか?
私はもともと、“自分の心の声”をすごく大切にするほうなのですが、その声を「どの局面でどういう伝え方で届けるべきか」は、しっかりと考えるようにしています。どんな状況であっても、自分の心の声に正直であるという姿勢は変えたくない。けれど同時に、周りの声にも誠実に耳を傾けられる自分でいたい。そうやって「お互いに心地よくいられたら素敵だよね」と、この作品で“集団心理”の恐ろしい面に触れたからこそ、改めて強く思いました。

たしかに。
お互いが心地よい方向へ向かおうとする連帯感も、
ある種のポジティブな“集団心理”と言えますよね。
本作では、悪い方向に向かっていく“集団心理”の恐ろしさが描かれていますが、私は一人ひとりが意識を少しずつ変えていけば、そのあり方は改善できるものだと思っているんです。日本人は自分の気持ちを表に出すのが苦手と言われがちだけれど、各々が自分の声を大切にして、誰もが気持ちよく過ごせる場所をみんなで作っていけたらいいな、と感じています。
公演期間を振り返って、
共演者の方の言葉や振る舞いに救われた、という
エピソードがあれば教えてください。
大千秋楽が近づいてきた頃、役に力が入りすぎてしまったのか、法廷シーンが終わってもアビゲイルが抜けず、涙が止まらなくなってしまった公演があったんです。目まぐるしい感情の波に飲まれて、辛さや苦しさ、悔しさが自分のなかでうごめいていて。ただ、どこかで「やっとアビゲイルに近づけた」と思えた日でもあって。そんな気持ちのまま楽屋へ戻ったら、アン・パットナム役の浅野令子さんが、「アビゲイルも、きっと幸せになっているよ」と声をかけてくださったんです。その言葉を聞いた瞬間、張り詰めていたものが解けて、ふっと息をつくことができました。史実の記録では、彼女はその後、街を出て娼婦になったという話が残されているのですが、私個人としては「どこかでアビーが幸せになっていてくれたらいいな」という思いがあって。もちろん彼女が犯した罪や、過酷な生い立ち、親が殺されてしまった背景などは絶対に拭えないものだけれど、本作を通じて彼女の痛みに深く触れたからこそ、「幸せになっていてほしい」という願いが芽生えたのだと思います。私のものさしでは、アビーがしたことは決して許されることではありません。でも「あなたのことをたくさん調べて、演じさせてもらいながら、少しは寄り添える人になれたつもりだよ」と思っているので、あの芝居が彼女にも届いていたらいいな、なんて思います。

史実に残されていない心情に寄り添うこと⸺
まさにお芝居の真髄だと思います。
本作を経て見つけた、
ご自身の“課題”と“武器”はありましたか?
課題は“のど”です。稽古から公演中まで、乾燥対策などは常に万全にしていて、結果的にも大丈夫だったのですが、もっと念には念を入れたいと思いました。というのも、一日だけどうしても体調が優れない日があって…。なんとか全公演をやりきったものの、ステージに立つ以上、毎公演同じパフォーマンスができるように体調管理をしなければいけないな、と改めて強く感じました。ただ、当時は反省ばかりで落ち込んでいたのですが、いまは「あの日は本当によく頑張った」と、めちゃくちゃ自分を褒めてあげたいです(笑)。私の武器は、優れない体調のなか公演を駆けぬけた“根性”だと思います。
最後に、瀧さんにとっての〈お芝居〉とは。
そして、この先紡いでいきたい
役者像について教えてください。
私にとって〈お芝居〉は、一種の“心の拠りどころ”です。たとえば、お仕事が思うように決まらず悔しい思いをしたり、辛い経験をしたりしても、いつか出会う役の糧になると思えば、「この過程も大切にしよう」と思える。そしていざ現場へ行けば、さまざまな個性をお持ちのアーティストやスタッフの方々と、世代を超えて一つの作品に向き合うことができる⸺。それは私にとってすごく面白い時間であり、心の拠りどころになってくれる大切な場所でもあるんです。そうして完成した作品が、いつか誰かの日常に届き、今度はその方にとっての“心の拠りどころ”になれたのなら、それ以上に嬉しいことはありません。お芝居を通じて、観てくださる皆さまの人生に、何かの“きっかけ”をお届けできる役者になれるよう、これからも精一杯走り続けたいと思います。

Item Credit
衣装:ジャケット、シースルーパーカー BOCBOK
その他スタイリスト私物
Staff Credit
カメラマン:YURIE PEPE
ヘアメイク:小園ゆかり/ YUKARI KOZONO
スタイリスト:Yuki Yajima
インタビュー・記事:満斗りょう
ページデザイン:Mo.et



