〈真実〉が宿る言葉を
見極めたい貴方へ
-Introduction-
報道は“真実”ではなかった――。
今の時代にこそ伝えたい、
アナウンサーたちの苦悩と葛藤の実話が映画化。
太平洋戦争では、日本軍の戦いをもう一つの戦いが支えていた。ラジオ放送による「電波戦」。ナチスのプロパガンダ戦に倣い「声の力」で戦意高揚・国威発揚を図り、偽情報で敵を混乱させた。そしてそれを行ったのは日本放送協会とそのアナウンサーたち。戦時中の彼らの活動を、事実を基に映像化して放送と戦争の知られざる関わりを描く。国民にとって太平洋戦争はラジオの開戦ニュースで始まり玉音放送で終わった。奇しくも両方に関わったのが 天才と呼ばれた和田信賢アナ(森田剛)と新進気鋭の館野守男アナ(高良健吾)。1941年12月8日、大本営からの開戦の第一報を和田が受け、それを館野が力強く読み、国民を熱狂させた。以後、和田も館野も緒戦の勝利を力強く伝え続け国民の戦意を高揚させた。同僚アナたちは南方占領地に開設した放送局に次々と赴任し、現地の日本化を進めた。和田の恩人・米良忠麿(安田顕)も“電波戦士”として前線のマニラ放送局に派遣される。一方、新人女性アナウンサーの実枝子(橋本愛)は、雄々しい放送を求める軍や情報局の圧力で活躍の場を奪われる。やがて戦況悪化の中、大本営発表を疑問視し始めた和田と「国家の宣伝者」を自認する館野は伝え方をめぐって激しく衝突する。原稿を読む無力さに苦悩する和田。妻となった実枝子はそんな和田を叱咤し、自ら取材した言葉にこそ魂は宿ると激励する。しかし和田は任された学徒出陣実況をやり遂げようと取材を深めるもその罪深さに葛藤するのだった。そして館野もインパール作戦の最前線に派遣され戦争の現実を自ら知る事になる。戦争末期、マニラでは最後の放送を終えた米良に米軍機が迫る。そして戦争終結に向け動きだした和田たちにも…。
戦争を語る人がますます少なくなっている現代、 本作を通してまた新しいアプローチの考察と共感、そして感動を呼び起こし、決して風化させてはいけない戦争の事実に目を向けてほしいと願い、映画化の運びとなった本作。 先人の苦悩は、現代を生きる私たちにとって学びになっているのか。政治・経済・社会状況、そしてエンターテイメントにおいても、なお連綿と受け継がれる「不都合な真実の隠蔽」と「不条理な大衆扇動」がまだそこには、ある。本作が映画化となり、戦時中における放送と戦争の知られざる関わりを通して、そこに関与する人間たちの苦悩を私たちは突き付けられるだろう。
伊藤さとり’s voice
昭和18年(1943)学徒出陣。
森田剛演じるカリスマアナウンサーは、兵力不足から20歳以上の学生を徴兵することになった出陣式での実況を頼まれることなる。映画はそのシーンの真意についてしっかり描いていた。当時、19歳だった父はこれを羨み、出陣前に終戦したことを悔やんでいた。しかし本当に亡き父は徴兵を望んだのだろうか。私事だが、父は終戦後、新聞記者の道を選んだ。間違いなく、本作で描かれている社会に影響を与える報道という仕事に興味を持ったからだろう。
映画は、ラジオアナウンサーという仕事が戦前から戦中になり、真実を伝える仕事から人の心を操作する任務へと変わってしまう状況を克明に描いている。森田剛演じる人気アナウンサー和田は、「アナウンス」にしか興味がないと言われていたが、多くの人の本心に耳を傾けているうちに「報道」について疑問を持ち始める。
戦中は、日本人を奮起させる為に、「嘘の情報」を流していたと言われている。国が情報を操り、都合よくメディアを利用していたと伝えられている。そのコマとなったアナウンサーたちは、当初は自分達の声の影響力に喜んでいたものの、やがてその脅威に気づき、心を痛める者もいた。この時代、メディアは国にジャーナリズムを奪われていた。しかし、それはもう過去のことなのだろうか。
映画に登場するアナウンサーたちはNHKに実在した人物であり、実話をもとに物語は作られている。私は森田剛演じる和田があるシーンで、定型の内容ではなく見聞きした言葉を代弁するアナウンス時の声や言葉が好きだ。それは和田という男が、実際に足で調べて聞いたことを、そのまま伝えようとした大胆な放送だった。「難しいことを分かりやすく伝える」劇中でも言われているが、確かにそれが報道だ。広く世間に伝える為に、噛み砕きながら的確に真実を伝える。時には心に響く声で伝える。それがジャーナリズムだ。
現代はSNSも普及したことから、調査して調べていない噂による情報が溢れている。テレビもSNSから情報を得ることもあり、時代と共にメディアも変化している。一般の人もSNSの使い方ひとつでカリスマになれる時代だ。けれど、この人たちが伝える言葉は、本当に「真実」なのだろうか。本作で姿を見せるアナウンサーたちは、戦争を体験したことで戦死した人もいれば、生き残った人はその後「事実」にこだわって仕事を続けたそうだ。
「事実」とは出来事そのものであり、もしかすると実況などが当てはまるのかもしれない。「真実」とは、ありのまま伝えようとするその人の真意だ。そう考えると報道が目指すのは「真実」になるのだが、調べ上げ責任を持って伝えられるものも「真実」への探究による発言だ。今この時代に本作を見る意味とは、「嘘の情報」に惑わされずに、自分から様々なニュースを取りに行き、「真実」を見つけ出す『目』なのかもしれないと思った。そして私は、亡き父はきっと、アナウンサーや新聞記者が持つ「言葉の力」に魅せられ、劇中、登場する少年のように「崇められる兵士」の姿に憧れ、言葉で人を動かす「力」を持ちたいと思ったのではないかと推測する。カリスマになりたいと思い、言葉を操る人間だっている。それは人の為ではなく、自分の為に。そんな人も現代は多いのではないか。