エン*ゲキ#06
即興音楽舞踏劇「砂の城」
「演劇はすべてがアクシデント」
表現の世界に、
またひとつ新たなアクシデントを
役者・池田純矢が脚本・演出を務める「エン*ゲキシリーズ」。第6回公演は、なんと即興で音楽を、歌を紡ぐといったもの。「演劇はすべてがアクシデントであるべき」、そう答えた池田さんの瞳には、どんなアクシデントが見えていて、舞台上ではどんなアクシデントが起こり続けるのか。いまだ誰も挑んだことのない《即興音楽舞踏劇》の、大阪公演の開幕まであと少し。砂の城の門は開かれている――
エン*ゲキ 即興音楽舞踏劇「砂の城」

-introduction-
《即興音楽舞踏劇》
ピアニストによる生演奏で紡がれる珠玉の音楽が世界を彩り、物語の住人はあるがままに、即興で旋律を奏で舞う。その日、その時、その瞬間にだけ、そっと貴方に届く密やかな物語は、たった一度の為にだけ存在し、同じ弧を描く事は二度とない。幻のように揺蕩う彼等の命を、より儚く、より刹那的に映すことで、贅沢で濃密な空間が“舞台芸術の可能性”を描き出す。これまでも様々な革新的作品を発表してきた「エン*ゲキ」シリーズ。その全てを糧に満を持して挑むのは、どこまでも自由な新境地。誰も知らない新たな芸術の産声が、アートシーンに燦然と響き渡る―。
-Story-
国土を砂地に覆われた大海の孤島、アミリア。街はずれの農地に暮らすテオ(中山優馬)はこの日、人生の門出に立っていた。領主・アッタロス(野島健児)の娘で、幼馴染のエウリデュケ(夏川アサ)と念願の婚礼を迎え、晴れてひとつの夫婦となるのだ。共に育った親友のアデル(鈴木勝吾)らも歓声を挙げ、全てが幸福に満ち溢れていた。時を同じくして、宮廷では国王崩御の報せが舞い踊っていた。王位継承権を持つ太子・ゲルギオス(池田純矢)はこの機を逃すまいと、最高文官である宰相・バルツァ(升毅)と共に邪な策を練る。しかし、先王の遺言によってこれまで隠匿されていた「王家の血を継ぐ庶子」の存在が公然の事実となる。玉座を確たるものにせんと、ゲルギオスは秘密裏に謀殺を企てるが…。そんな折、テオらの暮らす地に王国からの勅令軍が訪れた事で、エウリデュケの従者で奴隷の男・レオニダス(岐洲匠)こそが、王家の血を継ぐ高貴な者であることが判明する。この日を境に、交わる事のなかったテオとレオニダスの運命は強く結びつき、次第に幸福だった日常は”砂の城”のように脆く、崩れ堕ちてゆく…。誰もが迷い、誰もが苦しみ、抗いようのない悲哀と憂いに縛られながらも其々が選んだ道は、果たして正しかったのか、それとも―。
-ゲルギオス/演出・脚本-
アミリア国王の太子。生まれながらの生粋の王族で、次期国王に最も近い存在。冷徹無慈悲で民の事は国家の為の家畜だとしか考えていない。レオニダスの出現によりその立場が脅かされ、 正統血族でない人間が王座に座ることを赦せない。自身の王位継承の為にレオニダス謀殺を図っている。

即興音楽舞踏劇 × 池田純矢
今作で謳われている“即興”は、メロディーもテンポも小節も変わる“即興”です。一度として同じ歌はできない作り方になっているので、全33公演中、33本作品を作るといった感覚に近いと思います。なので、稽古に関しては歌とダンスの稽古ではなく、作られた旋律なしにどうすればその場で歌を歌うことができるのか、そういった部分を中心に行ってきました。基本的に僕はコードにさえ乗っていれば、歌は歌えると思っているんです。ただ自由な分、ルールは作っていないといけないので、「ここから先は行き止まりですよ」といった、“これ以上行ったら表現の枠から逸脱してしまうポイント”を身体に馴染ませていくようにしています。要は即興を本番で行うための間違い探しを、稽古の中でやっておくイメージです。。
見る度に違う作品のように見えそうですね。
即興音楽舞踏劇、というものは、
もともとやりたいと思っていた
作品の描き方だったんですか?
そうですね。通常、舞台で歌を歌うとなると、音トリから行ってパートを合わせて、音を外さないように練習をして…といった流れで稽古をして本番へ向かうのですが、僕はずっと「演劇はすべてがアクシデントであるべきだ」と思っていたんです。本質的に「その場で生きる」ってそういうことなんじゃないのかな、と。なので、舞台上で役者の技術を中心に観てしまうことに、個人的に少し違和感があって。もちろん、しっかりと作りこまれたミュージカルを観ることも僕は大好きなのですが、もっと劇中の歌をお芝居同様シームレスに行えたらいいのにな、といった想いがあったんです。役者そのもの、その人の一番良きところで表現ができたら、すごく良い物になると思ったんですよね。
“役者そのものの表現”だと
それぞれの即興にも個性が如実に出てきそうです。
その人の中に一番大きく存在しているものが出てくるように思います。お芝居でも何でも、その人の中にあるものからしか“即興”って生まれないと思うんです。例えば、踊りでもバレエをやっていた人だったらそういった動きが出るでしょうし、ジャズをやっていた人だったらジャズの動きが出るでしょうし。そういった“自分の中に蓄積されてきたもの”が、即興で出てくるのが面白いな、と思いますね。今回は物語的にも、その人らしさが生きる作品になっていると思うので、僕自身も楽しみです。

ご自身で脚本・演出も行われている池田さんですが、
キャストの皆さんの個性に合わせて、
役の人物像が変わることもありますか?
難しいところなのですが、演出の段階で基本的にキャストの個性に合わせて役を変えることはありません。役の心情とキャストの心情がどうしても乖離してしまう場合は、変えてもいいと思ってはいるのですが。ただ僕は、作家として意味のあることしか書いていないつもりですし、セリフやト書きに意味を持たせる演出しかしていないつもりなので、キャストの方には表現が繋がっていくルートが見えていなかったとしても、僕には繋がったルートが見えている、その話をするようにしています。そういった意味でも、今回の『砂の城』の現場はすごく健康的な現場だと思いますね。皆さんがそれぞれプロフェッショナルな仕事をしてくださっていますし、素晴らしい方たちばかりで明るく楽しく、けれどものづくりにおいては妥協を許さない、そんなすごく良い現場です。
配役をどうするのか、を
どのタイミングで決められているのか
教えてください。
僕は脚本を書いている時は、演出のことも役者のこともまったく考えないので、作家の自分と演出家の自分、役者の自分で感覚も考え方もバラバラなタイプなんです。演出家や役者の自分で作家の自分の書いた本を読む時って、他の人が書いた本を読むときにに近い感覚といいますか。なので、配役をする時の自分がその本を読んで感じたことを配役に活かすことが多いです。演出をする時に、作家の自分が書いた時の心情とは違う心情にキャラクターを置くこともありますし、役者の気持ちで本を読むと、作家と演出家の自分が感じたことと違うことが急に見えてくることもありますし、頭の中に3人の自分がいるんですよね(笑)。

今回、ゲルギオス役にご自身を配役された理由と
それぞれの池田さんから見た
ゲルギオスの人物像を教えてください。
まず、ゲルギオス役を決めたのは一番出番が少ないからです(笑)。演出をする時間をしっかり取りたかったので、ゲルギオスに決めました。役者の僕から見たゲルギオスは“寂しい人”。ただ、作家・演出家の僕から言うと、この作品に出てくる人はみんな、キャラクター性は違えど“寂しい人”なんです。僕は自分の知っている感情しか書きませんし、すべてのキャラクターに自分を投影しているから、余計その寂しさが分かっていて。主人公のテオも、女性キャラクターのエウリデュケも、みんな寂しさを抱えている。すべての役が自分であり、すべての役が自分ではないという状態です。そのうえでゲルギオスを特別視するとしたら、作家として僕が書いて、演出家として僕が演出して、役者として僕が演じる、この3者を一気に集約しないといけないので、なかなか難しいところでもあります。
Dear LANDOER読者
From 池田純矢
エン*ゲキ 即興音楽舞踏劇「砂の城」
即興音楽舞踏劇は、意外と難しいことをしているわけではなく、僕がやりたかった“アドリブ”ではなく“即興”が詰まった作品です。即興だからと言って好き勝手にやっていいわけではなく、しっかりとクオリティを担保したうえで、作品性やキャラクター性を表しながら瞬間的に表現を作り上げてゆく。そこを目指しているからこそ、「どこが即興だったか分からなかったね」と、皆さんに言っていただけるような作品を作らなければならないと思っています。実際、「どこが即興?」と言われるとすべて即興なんですけれど(笑)。2度、3度と観ていただいても、まったく違う作品を観ることができるので、是非、それぞれのプロが織り成す即興劇を楽しんでください。


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インタビュー・記事:満斗りょう
ページデザイン:吉田彩華